旅行する際、どの観光地に行ったら良いか迷う方は多いと思います。この記事では愛媛県松山市やその周辺エリア(伊予市・内子町・大洲市など)の観光スポットを紹介します!
松山エリア
【貴重な現存天守・日本最後の天守建築!】松山城
標高132mの勝山に位置する松山城は、姫路城(兵庫県姫路市)・津山城(岡山県津山市)と並び「日本三大平山城」の1つとされているほか、江戸時代の天守が現存する「現存十二天守」の1か所です。1602年(慶長2年)に加藤嘉明により築城開始、1630年頃の蒲生忠知の時代に完成したとされています。当時の天守は1784年(天明8年)の落雷により焼失しており、現在の三重三階建て層塔型天守は1854年(安政元年)に松山藩12代藩主の松平勝善により再建されたもので、日本最後の天守建築とされています。明治時代の廃城令による解体や松山空襲による焼失を免れています。松山城天守へはロープウェイで登ることができ、天守からは松山市街地を一望できます。
- 貴重な現存天守!江戸時代の天守が現存。
- 現存数が少ない望楼型二重櫓の野原櫓も見どころ!
【基本情報】 【交通アクセス】
【フランス風の洋館】萬翠荘
旧松山藩主の子孫にあたる久松定謨により1922年(大正11年)に別荘として建設されたフランス・ルネサンス風の洋館です。社交場として要人の交流の場所として利用されており、皇族方が愛媛県を訪れる際は必ず立ち寄られたそうです。建築当時の様子をほぼそのまま残しており、国の重要文化財に指定されています。
【基本情報】 【交通アクセス】
【松山の観光地といえばここ!】道後温泉
古代の万葉集にも記載されていたり596年には聖徳太子が道後温泉に入湯した記録があるなど、古くから道後温泉の存在が知られており「日本三古湯」の1つとされています。かつては伊予国府が現在の今治市にあり、京から見て伊予国国府よりも道のりが遠いことから「道後」と呼ばれるようになったそうです。1635年(寛永12年)以降は松山藩主の松平家による温泉経営が始まり、道後温泉は大いに栄えたそうです。道後温泉のシンボルである道後温泉本館は1894年(明治27年)築の木造建築で、現役の共同浴場として地元民や観光客に利用されています。
- 道後温泉の泉質は美容に良い効果あり!
- 道後温泉駅前にはからくり時計や足湯がある!
【美しい朱色の社殿!】伊佐爾波神社
伊佐爾波神社(いさにわじんじゃ)は道後温泉近くの道後山東南に鎮座する神社です。創建当初は現在の道後公園の場所にあったそうですが、河野通盛によって湯築城が築城される際に現在地に移転しました。1667年(寛文7年)に松山藩主であった松平貞長により現在の社殿が「八幡造」という建築様式で造営されました。
- 「八幡造」は全国的に珍しく、伊佐爾波神社・石清水八幡宮(京都府八幡市)・宇佐神宮(大分県宇佐市)と並び全国で3例しか見られない建築様式!
【復元された武家屋敷】道後公園 湯築城跡
1335年(建武2年)から約250年間存在した湯築城跡に整備された都市公園で、花見の名所として知られています。武家屋敷・土塀などが復元されているほか、湯築城跡周辺にはお堀が張り巡らされています。湯築城跡の丘の上には展望台が設置されており、道後地区を一望することができます。
【道後温泉の近くにある寺院】石手寺
道後温泉から徒歩約15分の場所に位置し、愛媛県で最も参詣客が多い寺院です。728年(神亀5年)に聖武天皇の勅願により伊予国太守の越智玉純が熊野十二社権現を祀る道場として創設されました。お遍路の元祖とされる衛門三郎ゆかりの地です。
【『愛媛』の由来 愛比売命を祀る】伊豫豆比古命神社(椿神社)
伊豫豆比古命(いよずひこのみこと)神社は伊豫豆比古命・伊豫豆比売命・伊与主命・愛比売命を祀る旧県社の神社です。「椿神社」とも呼ばれており、縁起開運・商売繁盛の神様として信仰されています。愛媛県の名前は愛比売命(えひめのみこと)から名付けられており、神様の名前を都道府県名に採用したのは愛媛県が唯一です。孝霊天皇の時代に創建され、江戸時代には松山藩主の久松氏からの崇敬が篤かったそう。津(港)の脇に位置していたことから「つわき神社」と呼ばれ、それが「つばき神社」に変化したといわれています。境内にある潮鳴石(しおなるのいし)は耳を当てると潮騒が聞こえるといわれています。
今治エリア
【藤堂高虎により築かれた!】今治城
今治城(いまばりじょう)は1602年(慶長7年)に藤堂高虎により築城され、三重の堀に海水を引き込んだ特徴的な構造であることから「日本三大水城」の1つとされています。1609年(慶長14年)に藤堂高虎が亀山城に移る際に天守も亀山城へ移築されることとなり、藤堂高吉の時代に天守が再建されたそうです。1635年(寛永12年)以降は松平氏の時代が続き、明治時代の廃城令により今治城の多くの建物は解体されました。1980年(昭和55年)に現在の五重六階の望楼型天守が再建、その後も東隅櫓・山里櫓・鉄御門などが再建されています。天守の1階から5階では武具・絵図・書画を展示しているほか、6階からは今治市街地・燧灘(ひうちなだ)・来島海峡大橋などを一望可能。夜には今治城のライトアップが行われます。
【基本情報】 【交通アクセス】
大山祇神社
(編集中)
新居浜・西条エリア
別子銅山 東平地区
(編集中)
伊予市・内子エリア
【絶景が見られる駅】下灘駅
ホームから伊予灘を眺めることができます。青春18きっぷポスターの撮影地や映画・ドラマのロケ地となったことから、近年は絶景スポットとして知られるようになり、観光客が多く訪れる駅となっています。
【昔ながらの商家が並ぶ町並み】内子 四日市護国地区
江戸時代から明治時代にかけての内子は和紙・木蝋の生産で栄えました。内子町の八日市護国地区には漆喰壁を持つ当時の商家建築の町並みが残されており、重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。
【基本情報】 【交通アクセス】
【徹底的に木造復元された天守閣!】大洲城
1331年に宇都宮豊房により創建されたお城です。1595年(文禄4年)に藤堂高虎が大州城に入城すると近世城郭として本格的に手が加えられ、1609年(慶長14年)に脇坂安治の時代以降も大洲城の整備が進みました。明治時代に老朽化により多くの建物が解体されてしまいましたが、大洲城に関する資料が多く残されていたことから、これらの資料をもとに2004年(平成16年)に伝統技法を使って徹底的に木造で天守閣が復元されました。
【基本情報】 【交通アクセス】
【自然に囲まれた別荘】臥龍山荘
文禄年間に藤堂高虎の重臣であった渡辺官兵衛により、この地に大名庭園が造られました。この大名庭園は一時期は荒廃しましたが、1897年(明治30年)に大州の貿易商であった河内寅次郎に臥龍山荘が建てられました。肱川の景勝地である臥龍淵を眺めることができ、自然に癒されることができます。
宇和島・西予エリア
【貴重な江戸時代の現存天守!】宇和島城
941年(天慶4年)に橘遠保が「板島丸串城」と呼ばれる砦をこの地に築いたそう。1595年(文禄4年)に藤堂高虎が入城すると「板島」という地名が「宇和島」に改称。その後本格的な城郭の築城が始まり、1601年(慶長6年)に最初の天守が完成します。1614年(慶長19年)に伊達政宗の長男である伊達秀宗が宇和島城に入城すると宇和島伊達家の時代がしばらく続き、1666年(寛文6年)ごろに伊達宗利により独立式層塔型三重三階の2代目天守が完成。この2代目店主は明治時代の廃城令による解体や宇和島空襲による焼失を免れており、全国でも12しかない貴重な江戸時代の現存天守です。上り立ち門は薬医門と呼ばれる形式としては日本最大規模で1600年頃の藤堂家の時代に建てられたものでは無いかと推測されています。
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【独特な階段状の段々畑】遊子水荷浦の段畑
遊子水荷浦(ゆすみずがうら)の段畑(だんばた)は急斜面地に石垣を積み上げて作られた階段状の畑で、文化財保護法の重要文化的景観に選ばれています。岬の先端に位置する小さな集落の遊子水荷浦では耕作地が少なかったことや養蚕業で必要な蚕のエサとなる桑の畑が必要になったため、明治時代から大正時代にかけて急斜面地に石垣が築かれて段畑が形成されたといわれています。現在はジャガイモの生産が行われており、お食事処「だんだん茶屋」では遊子水荷浦で収穫されたジャガイモを使った料理をいただくことができるほか、遊子水荷浦のじゃがいも商品・特産品を購入することができます。
【基本情報】 【交通アクセス】
【江戸時代の町並みが残る】卯之町の町並み
卯之町(うのまち)は江戸時代に宇和島藩の在郷町・宇和島街道の宿場町として栄えた地域です。江戸時代の白壁・うだつ・出格子などを持つ伝統的な家屋が多く残されており風情のある町並みとなっていることから、重要伝統的建造物群保存地区に指定済み。開明学校・愛媛県歴史文化博物館・宇和米博物館・末光家住宅など様々な見どころがあります。
【基本情報】 【交通アクセス】
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